講師をお招きして算命学のセミナーを開催します
4 月18日(木)13:00~15:00 (参加費 3000円)
「算命学」 とは古代中国の時代にうまれた
中国陰陽五行を土台とする人の宿命を知る 学問です
毎月違ったテーマに沿って 算命学をお届けいたします。
回を重ねるごとに あなたも宇宙の叡智を知ることができるでしょう!
4月のテーマーは 戦国時代を代表する武将の
「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について」 です!
3人を学ぶことで未来を生きるヒントが得られる!
織田信長 豊臣秀吉 徳川家康について
三人の年齢差は織田信長公が秀吉公より 3 歳年上で、秀吉公が徳川家康公より 5 歳年上です。
信長公は家康公より 8 歳年上という事になります。
信長公の日干は丙火で、秀吉公の日干は丁火で、家康公の日干は丙火です。
三人の五行は共に火性ですので、血は繋がってはいませんが、兄弟の関係です。
特に信長公と秀吉公の関係は丙火 ( 陽 ) と丁火 ( 陰 ) の関係で 最も良い相性です。
もちろん、秀吉公と家康公の関係も共に丙火と丁火の関係ですので悪くはありませんが、実は良くもありません。信長公と家康公の関係は共に丙火同士の関係ですので反発があります。しかし、共に人に頼らず、自分の力で切り開いて行く共通点と、窮地に陥った時の的確な判断や烈しい決断力は大変共通点があって、性格の相性はとても良いです。しかし、政治理念や人生観の捉え方などが相当に違っていますので、結果的な相性としては、三人の中では一番悪い相性となります。家康公は牽牛星と車騎星が二つありますので、大変にプライドが強く性格的にも真面目で短気な性格なのですが、信長公に対しては一切逆らわず従順に従っていく生き方を取られますので、家康公は信長公に対して相当に忍耐強く接していたと考えられます。
織田信長公について
父が病弱であったので、長男の信長公は織田家の嫡男でした。小さい頃から英才教育を受け、馬術と水泳が得意だったそうです。若く幼い信長公が優秀な人物だと周囲に思われると、命が危うくなるので「うつけ」のふりをして生きていきます。うつけとは頭のおかしい人の意味です。父親の葬儀に抹香を投げつけたエピソードは有名です。信長公は頭が悪いと思った今川義元公などの周囲は油断して暗殺しなかったのです。そして兄弟の織田彦五郎や信勝も油断して信長公と戦って敗死します。
親との縁が無く、兄弟との縁も薄く、理解者もなく生長していく様は、信長公が午未中殺で生年中殺だったからだと言えます。孤独な幼少期と青年期でした。しかし類い稀な能力と知略と非凡な感性は第四命星 ( 人体図の頭の星 ) が龍高星であり、第三命星 ( 主星の向かって右側の星 ) が調舒星で、この二つの星が精神星であり、中殺を受けていますので、超人的な信長公を作っていると思われます。
また、第四命星の龍高星に対して残り四つの星と相剋となっていますので、大変に激しい性格で相当な癇癪持ちであったと思われます。それが桶狭間の戦いで、奇襲によって大群の将であった今川義元を打ち破った勝因だったと思います。
信長公のエネルギーは天将星 12 点と天禄星 11 点と天庫星 5 点ですので、宿命は最身強でまさに「魔王」と言っても過言ではない迫力と強い精神力が感じられます。
残念なことは、信長公は午未天中殺なので、子供や後継者との縁が薄いという点です。六親法から子供の星は壬水となるのですが、信長公の中には壬水もその陽陰となる癸水も存在していません。つまり子供縁と部下縁に薄いという事になります。十二親干法で子供は己土となりますが、年干の甲木と干合していますので、甲木に取られています。
信長公は本来丙火の人物で、日干丙火の役割は長年の過ちや歪みを修正する役割であり、既存の室町幕府打倒であるとか比叡山焼き討ちや今までの常識や通念を破壊して新たな新世界を作っていく事となるのです。そのためキリスト教を広めるとか外国との貿易などに力を注いでいきます。
年干の甲木は、旧態依然の秩序を表しています。旧態依然の秩序とは天皇や皇室を頂点とするヒエラルキー世界です。信長公の配下の明智光秀公は信長公の優秀な部下で子供の位置にいます。それは年間の甲木に干合される己土が明智光秀公と読む事ができます。明智光秀公は立派な君主で、日本の国王になれる力を持っていますが、天皇家や皇室に対してはそれに従う古風な考えを持っています。また比叡山焼き討ちの時も、絶対に止めようとするので、反対に信長公の怒りを買ってしまう程でした。
実はこの比叡山焼き討ちの 2 年後の 1582 年 6 月 2 日に「本能寺の変」で光秀公に攻められて、信長公は自害する事になりました。天下統一を目前でしたが、 48 才の若さで亡くなってしまいました。光秀公は信長公を尊敬していましたが、皇室を下において信長公自らが日本国の王になるという考えと仏教を迫害したりする思考法を、邪悪な人物と判断して滅ぼそうとしました。
信長公が死なずに日本の王になっていたらどんな世の中になっていたかと言いますと、安土桃山時代が花を開いて、日本は経済大国となり、日本国の人口も増加していき、多くの文化と芸術が花開いたことだと思います。それまでの信長公の政策も、楽市楽座や関所廃止など、庶民にとっては自由と開放のための政治となっていく予定でした。
それをする為には、内政を光秀公に一任し、軍事は秀吉公に一任して、家康公には距離を置いて付き合うといったやり方が望ましいと思います。何より内政面において光秀公を立てて今でいう所の総理大臣として用いるのがあっています。明智光秀公は公家や天皇家との付き合いであるとか、仏教とキリスト教のバランスを立てさせるのには十分な能力をもっています。そうすれば本能寺の変はなかった筈でした。
ただ実際には、信長公は大変なお方なので、人の話を聞くとか、人に従ったりしない人ですので、難しかったのでしょう。
信長公、秀吉公、家康公の中で最も強く、強大な運勢を持っていた人物は信長公だと思います。
信長公は思想的には大変開けた思想の持ち主ですが、無神論者だと思われます。キリスト教を保護したのは、仏教や皇室に対するくさびのようなもので、信長公は御自分が王であり神であると思っていたことでしょう。
豊臣秀吉公について
豊臣秀吉公の運勢の強さは、信長公、家康公に次いで 3 番目の強さとなります。
大変頭が良く、軍略や知略に富む武将です。攻撃よりも守りにおける戦い方の強さを持っています。
三人の武将の中では大変に融通が効き、相手の話をきちんと受け止めます。
秀吉公は信長公との出会いから滅茶苦茶な程の運勢が舞い降りてきた、と言っても過言ではないと思います。秀吉公の運勢の不可思議は、天干の二重干合にあります。
日干丁火は月干の壬水と干合して乙木に変化します。また月干の壬水は甲木に変化します。
また年干の丁火は月干と干合して乙木に変化します。
そして地支は月支寅木で日支卯木なので年支酉月を除いて全てが木性に変化しますので、木性一気格一点破格となります。
木性一気格の運勢は、人生を馬車馬のように一直線に進む質があり、性格も猪突猛進で融通が効きませんので、良くなるのも悪くなるのも一気に進んでしまう傾向となります。
しかも変化した日干乙木からは寅木は天将星 12 点、卯木は天禄星 12 点となり、魔王、織田信長公の強さに匹敵するようになります。この時点では、家康公は秀吉公にはるかに及ばなくなります。
しかし、二重干合は日干と月干が干合している場合は、年干と月干は干合せず、反対に年干と月干が干合していると、日干は干合しなくなりますので、この二重干合の一気格一点破格の運勢は大変に不安定なものとなります。つまり、物凄く強い面が出たかと思うと、反対に気弱な一面を見せるという矛盾性が出てしまいます。自分にはできないものがない、と言いつつ、
ある瞬間には自信を失ってしまい、気が弱くなってしまうという不思議な面を見せます。
人間的に見ると、大変に面白く魅力ある人物となります。それでいて強い時も、弱い時にも、頭の良さは変わりません。それが秀吉公の運勢的な特徴です。
信長公が秀吉公の能力を最大限に引き出してあげて、何にもなかった藤吉郎から天下が注目する秀吉公に変貌していきました。その様は土底辺にいた平民が大出世をしていく成功物語です。
もう一つの二重干合の特徴は、自分の妻を取られたり、人の妻を奪ったりするとか、他人が築き上げた名誉や地位を奪ったり、自分が築き上げた名誉や地位を他人に奪われたりするということです。
秀吉公には鶴松、秀次、秀頼の三人の子供がいました。鶴松は 2 歳で病死、秀次は鶴松が死んだので養子として迎えますが、秀頼が生まれた後に切腹させられます。
豊臣秀頼公の父親は秀吉公ではなく、大野治長と言われています。また石田三成説もあります。
何れにしても秀吉公は秀頼公を自分の子供とは思っていなかったようです。しかし、浅井長政の血筋の淀君で、正当な織田信長公の血統ですので、秀頼公が正当な世継ぎと思い、豊臣家の安泰につながると信じたようです。
秀吉公の日支卯木の中に子供の乙木がいますが、年支酉金によって冲されていますので、子供には恵まれにくいです。また子供乙木には月干の壬水が水生木と乙木を助けてくれるので必要なのですが、干合してしまい、水性の質を失っていますので、余計に乙木は育ちません。
嫡男であった鶴松公は淀君と秀吉公の子供だった可能性があります。
月干の壬水が日干丁火の干合相手ですので、壬水を淀君と見る事ができます。その淀君は年干丁火と干合しています。この干合相手は大野治長と見る事ができます。大野治長に淀君を取られている形です。
また、年干支丁酉と秀吉公の日干支丁卯は納音 ( なっちん ) の関係となっています。
秀吉公は実の親と全く違う人生を歩むという事になります。農民から武士の変化です。
また年干支は秀吉公の上司の立場である信長公を示しています。信長公が天下統一を成し遂げられなければ、秀吉公は天下統一できるようになっています。
逆に言えば、信長公が光秀公に殺されなければ、信長公を抜いて天下統一は決してできなかったはずです。
光秀公が信長公を倒して天下統一した名誉は、秀吉公が目指していた名誉で、それが月干の壬水 ( 牽牛星 ) です。それを奪った光秀公は年干丁火で表しています。年干丁火の光秀公が月干壬水 ( 天下統一という名誉 ) を干合して奪ったのです。それを再び、光秀公を天下の大逆賊として倒して光秀公から奪った名誉 ( 月干の壬水 ) が天下統一なのです。秀吉公から見た本能寺の変は、神のように仰いでいた信長公を殺した光秀公を必ず倒すという怒りと悲しみが天下統一の道を成し遂げるようになったのです。
光秀公から奪われた名誉を再び干合によって奪い返すという二重干合の理となっているのです。何度も繰り返しますが、光秀公が信長公を倒さなかったなら、秀吉公の天下統一はなかったのです。
信長公の願いであった天下統一の夢を、光秀公は三日天下で成し遂げ、その光秀公を倒す事によって、天下統一を秀吉公は成し遂げていくのです。到達した天下統一の名誉を、再び年干丁火である徳川家康公がが秀吉から奪って徳川幕府を 1603 年に開いていく事になるのです。
これらが、秀吉公が抱えている二重干合の宿命であり、他人から名誉を奪い、その名誉が他人に奪われていくという宿命なのです。
結局、数奇な人生で天下人となった秀吉公は後継者がいなかったことが残念な結果となりました。
徳川家康公について
徳川家康公の幼少期は、人質として苦難に耐えた時期でした。
家康公は三河国の松平広忠の息子として生まれ、幼名は竹千代でした。 3 歳の時に両親が離別し、母と別れました。 6 才からは隣国の今川氏に人質として送られ、十数年間を過ごしました。
家康公は子丑天中殺で 12 月生まれなので生月中殺となり、合わせて生日中殺でもありますので、故郷や親兄弟に頼る事ができず、孤独な幼少期と青年期を過ごしますが、この期間を通して烈しい気性を抑えてコントロ―ルできる忍耐心と機知を習得していきます。
家康公の宿命は天南星があり身強です。また、月支の子水と日支の辰が半会して水性に変化しますと、殺印相生格完全格となり、運勢上では三人の武将の中では最上格の宿命となります。頭も良く、人望もあり、先祖の恩徳もあり、最高の出世をすることができます。
実際に江戸幕府は 264 年間、平和で戦争のない時代でした。鎖国という条件可ですが、日本国民は平和で戦争のない期間を送る事ができたのも、家康公の知恵と家康公の作った国家システムのお陰だと思います。
織田信長公の日干支は丙戌で、徳川家康公の日干支は丙辰です。
この関係は納音 ( なっちん ) という宿命の関係です。信長公が貿易型で門戸開放型であるのに対し、家康公は門戸を閉じて保護貿易という体制を取りました。平和意地の為に士農工商の身分制度や、公家や武士の力が強くなり過ぎないように、禁中並びに公家諸法度や武家諸法度の制定を行います。全てが江戸幕府の統轄の下に平和的システムが敷かれました。
家康公が天下を取れたのは、どこまでも信長公が殺されたことによって成立するようになりました。
信長公が殺害されなければ、きっと信長公は長生きしたはずなので家康公は天下人にはなれなかったと思います。しかし、信長公が長生きしたとしても子縁と部下縁が無い為に信長公一代で終了したはずです。その後は再び混乱や戦争の時代が起きたかもしれません。
また秀吉公も子供縁と後継者がいなかったので秀吉公一代で終了してしまいました。
家康公は子供縁と部下縁は薄いのですが、部下や子供たちは立派に責務を果たしていくようになり、ここが他のお二人と違う所です。乱世に終止符を打ち戦乱の時代を終結させるために、苦労の人生を家康公は送る事になり、その事によって江戸幕府を出発させたのには、天の導きと助けがあったのではないかと感じます。
1614 年大坂冬の陣、 1615 年夏の陣の戦いで秀吉の残党を家康公は全て倒します。秀頼や淀君も自害します。最後に大阪城に火を放って大阪城は陥落します。これにて因縁の戦いに決着をつけた家康公は翌年 1616 年に亡くなります。家康公の最高に運勢の良い期間は 54 才から 73 歳までの二十年間です。
最も良い運勢の最後の年に亡くなる事によって徳川幕府安定のための未来を開かれたと思います。
明智光秀公も素晴らしいトップの運勢を持っていますが、旧態依然の体制を維持するスタイルの為に淘汰されてしまったと思います。乱世ではなく平和な時代であれば、明智光秀公も日本の王になれる内容を持っておられました。
三人の武将は稀に見る英傑たちで未来のより良い未来を拓くために頑張って生きた英雄と言っても過言ではないと思います。
最後に川柳で有名なホトトギスの譬えを記します。
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス (信長)
鳴かぬなら 鳴かせてみようホトトギス (秀吉)
鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス (家康)
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姓名判断、九星気学、風水地理学、四柱推命、紫微斗推命、五行易など研究。
現在は原理算命学を研究、指導中。
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【参加者さまのお声】
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〇人間関係の根源が成人になる迄の兄弟姉妹との関係に凝縮されると聞いて納得しました。子供の時に知っていたらもっと生きやすかったり、人間関係で悩まなかったのにと思いましたが、今からでも兄弟と良好な関係を持つことで現実世界の人間関係も良くなることがわかり希望がわいてきました。(Y.Hさま)
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